tawara's blog

雑記。個人の見解です。

説明責任について考えることが増えた。説明できてないなーと思う。

例えばPRレビューをするときに、こう書くほうが可読性が高いと思う、と指摘したいと思う。そのように書くのは簡単だけれど、いまの自分にとってはその根拠が経験的、感覚的だ。もう少し相手に伝わるように、背景を説明する必要性がある。なぜ可読性が悪く感じるのか、可読性の悪いコードを書くとどう悪影響なのか、具体的な認知負荷が増えるケースは何か、など。またエンジニアとして良いコードを書いたほうがよい、という原理にある程度妥協をして可読性を部分的に犠牲にするべしと判断するときもある。さまざまな理由で(いわゆる)レガシーコードに合わせた書き方をしたほうがよいときだ。このタイミングで可読性のためにコアな部分に手を入れるのは、たとえ可読性を上げるためでも、止めてほしいときがある。

と考えると、可読性ひとつとっても指摘する側としては説明するときの材料を集める必要があると感じる。そして可読性の範囲を示す必要がある。原理的な可読性と現実的な可読性の両方を視野に入れてコミュニケーションしたい。そのどちらもまだまだ向上の範囲があって、頭がくらくらするときがある。

原理的な、の方は技術書で学習できる。現実的な、の方はいまの開発組織に求められる事項、その優先順位を把握する必要がある。現実的な、の方はさらに未来のビジョンを把握が必要になる。向かう先はこうだから、いまこうなので、この場合はこうしよう、という一連の論理が求められる。そしてそれらを納得してもらえるように言葉を使って説明能力については、、、練習するしかない気がする。セールスの知識や落語を勉強する必要性すら考えている。

最近、役職が高い人達の会議に参加する機会を得たのだけれど、彼らはその説明責任が優れていると感じる。目の前の認識が大いなる図柄の一部として新鮮に塗り替えられる、という感覚が得られるからだ。手持ちのタスクの成果の重要性が変わって見えてくる。仕事への姿勢すら変わる。

リーダーやマネージャーなど人を率いるポジションにはこういう力が求められるのだな、と勉強になった。

(了)