tawara's blog

雑記。個人の見解です。

「悪い」の世界がある。その世界で生きていると、例えば高級ホテルのラウンジで紅茶のカップを見つめていても、カップの一部がくすんでいるな、添えてあるスプーンに水垢がわずかに残ってるな、というように思う。ただ存在しているものに対して、悪いことを探す。あら探しが止まらない。

これを他人に向けてしまう。大切な友達が落ち込んでいる。それは「悪い」ことだと判断する。「悪い」世界の住人は彼に向かって、君のなかの〇〇が悪いよ、と指摘する。そして〇〇したほうがいいよ、とアドバイスをする。そしてアドバイスを聞き入れてくれないと、今度は彼を責める。どうしてリソースを割いてアドバイスしてるのに聞かないのだ、改善させようとしているのに、あいつはダメなやつだ、みたいなコミュニケーションになる。人間は「変化」を嫌う。聞き入れる準備ができていないと、アドバイスには反発する。忠言耳に逆らう。あるいは、アドバイスされた側が強欲な人なら、どんどんリソースを奪ってくる人になってしまう可能性がある。もっとアドバイスをしてくれ、アドバイス通りに行動したけど事態が解決しないじゃないか、アドバイスをしたお前が悪い、謝れ、責任を取れ、と。いわゆるテイカーというやつだ。

なので、相手を「悪い」と見てしまうことがまず間違いなのだ。ほっとしても落ち込んでいる彼は究極的には死なない。野生の猛獣に出会わないし感染症が蔓延してる時代じゃない。衣食住をなんとかすることができる。だから介入しなくても根本的には死なない。つまり相手を「悪い」と思って介入するアプローチは間違っている。それは自分のエゴだ。友人は「悪い」状態にいる。だから相手を「変化」させたい、というエゴだ。相手を自分の思い通りに変えたいのだ。

相手は死ぬことはない。そういう状態にあるだけ。こちらから変化させるのはいい結末にたどり着けない。なのに変化させようと執着している。この構図を俯瞰してみると実に滑稽だと思う。出口のない迷路に一生懸命な感じだ。慈しみすら覚える。その状態に執着するのは馬鹿らしい、どうでもいいじゃないか、と自分を赦す。だから自分が「悪い」の世界にいるなーと思ったら、どうでもいいやと思う。何か落ち込んでるな、でも死なないしな、どーでもいいや、と。それくらいシンプルに考える。どうでもいいや、と思うのは赦しだ。脳内リソースが空になるので別のことに使える。

ではどういう風にコミュニケーションを取ればいいのか。人が変わるのは自覚しかない。他人からのアドバイスでは変われない。だから自覚を促すようにする。ひとつは深刻な悩みをどーでもいいやと思っている人間と触れることだ。その悩みってよくあるよねー、だからそんなに考える必要なくないか、みたいなことをカラっと言ってあげる。あるいは、理想像を考えてもらうことだ。結局のところ落ち込んでいるけど、今後どうなりたいの?と。そこを考えることで、落ち込んでいる当人にとっての本心が見えてくる。「あ、こうしたい」という気づきを彼自身が持つことになれば悩みの解消に一歩近づく。

「悪い」のベクトルは当然自分にも向けられる。〇〇しちゃう自分は「悪い」、〇〇できない自分は「悪い」だから自分はセンスがない、などと連鎖していく。自己否定は別の所での悪さを引き起こす。そしてまたそれを「悪い」と思う。終わらない拷問だ。そうすると精神の健康を害してしまう。他人にひどくあたるようになるかもしれない。「悪い」で裁き続けることにいいことはない。

「悪い」と思ってしまうことは反応のひとつの表れだ。なので、あ、反応してるな、と気づくことが「悪い」の世界から抜け出す一歩だ。そして、「悪い」に執着している自分を俯瞰的に見て滑稽だなと思う。そんな自分を赦す。そうすると反応が弱くなる。反応は命を守るための本能なのでなくならない、でも気づいて対処することはできる。どうでもいいや、がキーワードだ。

(この文章がどう読まれるだろうか、、、どうでもいいや)

(了)