tawara's blog

雑記。個人の見解です。

楽しかったことが楽しくなくなった瞬間についてはあまり覚えていない。というか楽しめなくなっていたことに気づいていなかった。幼い頃からサッカーが好きだった。相手をフェイントで騙すことが楽しかった覚えがある。いつから楽しくなくなったのか。小学校の高学年くらいだったかもしれない。

当時、周りに比べて身軽だったからか足が少しだけ速かった。だから攻めの選手として試合に出ていた。敵陣を裂く長いパスに走って追いつき、シュートをする、というのが主な動き方だった。小学生の頃にはやはり上手い選手がすでにいる。ボールコントロール、シュートの強さ、などなど。そして勝つことに貪欲な選手だ。その人は、下手なプレーに厳しい人だった。試合に出ると活躍する。自分でゴールを決めれば上機嫌、誰かがミスをすると叱咤する。

で、僕は彼とプレーをする機会があった。状況は不鮮明だ。何か大切な試合だった気がする。小学生にして芝生での試合だったから、どこかの施設でれっきとした大会だったはずだ。彼は右サイドを切り裂き、地を這う鋭いボールを中に蹴り込んだ。僕はそれに反応したけれど、間に合わずボールはゴールキーパーと僕の間をすり抜けた。「何してんだよ、触るだけじゃないか」と僕は怒られた。それをいまでも覚えている。使えねえな、という表情に僕からは見えた。僕は当時そのような感情を向けられたことに、うまく対処できなくて悲しくなった。そして恐怖するようになった。失敗したら、また突き放されるのではないか、と。

そういう原体験があったからか、その後の学生生活のなかでの部活でも、恐怖の感情はよく湧いた。学生時代には原体験に気づかず、ただ恐怖の感情を抱くだけだった。試合に出てもシュートを外し、チームメイトに申し訳なく思った。サッカー歴が重なれば、1試合の重みが理解できるようになるし、1プレーの重要性がわかる。だから余計に罪悪感を覚えた。試合に出たくないとぼやくこともあった。もっと上手な後輩を出したほうが勝率があがる、と。残ってシュートの練習をしたが、結果は出なかった。しかし試合のメンバーには選ばれた。表面上はありがたく、内面ではうんざりしていた。どうせ僕のせいで負ける、と。

失敗すると叱責される、それに恐怖している、という状態は学生生活で僕の深いところに根付いたように思う。それは別の形でも影響力を持つようになった。挑戦する、責任を取る、という行動に対して消極的になった。なぜなら失敗する可能性があるから。他にも、失敗しそうな状況に放り込まれると、僕を投げ込んだ人を恨むようになった。なぜなら失敗する可能性があるからだ。

そのような状況では、心拍数があがり、「やばいやばいやばいやばい、死ぬ」みたいな焦燥感で頭がいっぱいになる。本当にキツイ。友人、家族、上司、顧客のせいでこうなった、と被害者意識が丸出しになる。心は擦り切れて、自暴自棄になる。僕が原因なんだ、自分という存在が元凶なんだ。誰も助けてくれない、導いてくれない、などと思考は展開していく。この焦燥感を仕事で抱いてしまうと、まったくパフォーマンスが上がらず、成果も出ない。状況次第では周りに迷惑をかける。現実の出来事に対して、失敗するかも、と反応してしまう。

最近、コーチングというか心理学のラジオを聞いて、そのような反応をつかむことがまず大事であり、そのような反応を持つきっかけになった原体験を思い出すことが大切だと紹介されていた。そして、そのような反応・価値観を得るきっかけになった自分を裁くのではなく、赦すことが大切なのだ、と。原体験のときに、そのような感情や状態になったことを、悪い、と決めつけずに、仕方なかった、と自分や他人を赦すことなのだ、と。悪いと思ってると、ずっと自分を裁き続けることになる。そして、いつしか同じような状態にいる他人を攻撃することになる。自分を裁いているルールを、相手や世間に対して適用して攻撃するのだ。

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というわけで、このエントリを書いているのだ。自分と相手を赦すために。

まず小学生の経験だが、前提として僕も彼も小学生だ。当時の僕は、彼に「使えないな」と思われていると、勝手に解釈していた。果たしてそうだろうか。思っていたとしても、その一瞬だけだった可能性はある。だってその後もきっとパスをしてくれてたろうし、関係は続いたのだから。小学生に相手を思いやる言葉を使ってくれ、と思うほうが傲慢だ。そのように解釈してしまった僕が傲慢だったのだろう。そのようにしか受け取ることができなかったのだ。小学生に言葉を受け取る際の技術を求めるのは難しい。だから相手も自分も仕方なかった、と30を超えたいまなら思える。

それから学生のときのいじけ(「どうせ自分のせいで、、、」)はとてもみっともない。みっともない自分を受け入れたい。人格の未熟な人間だったのだ。まず、シュートを外しても外してもパスをしてくれたチームメイトへの感謝を忘れている。それどころか、自分をいじけさせる原因だとすら思っている。助けてくれない相手達とも思っていた節がある。とても未熟だ。バカやろうだ。いっしょに残って練習してくれた彼らの恩を顧みれば、どうせ自分は、といじけるのではなく、だったら活躍しようと思いたかった。周りを悪いと決めつけていた。

もっと周囲に助けを求めればよかった。思春期?ゆえに悩みを打ち明けることができなくてただ不機嫌になっていたと思う。どこが原因でシュート力が出ないのか、など。そういう自我を守るために、SOSが出せない未熟さがあった。そういう人間だったのだ。

そしていじけの奥にある悔しさも見過ごせない。悔しかったのだ。もっと活躍して、試合を決定づけるプレーをしたかった。ゴールを決めて、みんなとゴール脇で馬鹿騒ぎをしたかった。相手チームにひと泡吹かせたかったのだ。そういう欲望を直視することをしなかった。失敗するのが怖くて、熱くなることに対して斜に構えていたのだ。そういう面もあった。ダサい。ダサい男なのだ。

社会人のときも、成長のために仕事を回してくれた上司の優しさに気づいていれば、もっとチャレンジして失敗から学ぶことができた可能性がある。失敗しない線ギリギリを超えることを目的にしていた。前向きに仕事に取り組まない姿勢は見え見えだったと思う。感謝もせずに、焦燥感に苛まされて、怒りすら抱いていた。未熟だなあ。

振り返ってみると、未熟な自分に出会う。周りにめちゃくちゃお世話になっていたのに、それに気づかず、恩を返さず、ただただ焦り、落ち込み、イライラしていた。そういう人間なのだ。未熟なところを受け入れよう。

このエントリは懺悔だ。自己理解が深まった気持ちよさを感じる。焦燥感が出てきたら、「反応してるなー、成長の機会だからちょっとやってみるかー」と思えるかもしれない。未熟さを受け入れて生活していく。

(了)