tawara's blog

雑記。個人の見解です。

今の会社でマネジメント寄りの仕事をする割合が増えた。マネジメントの仕事って具体的に何をやってるのか、メンバーからは見えなかった。だんだん見え始めている。まだ氷山の一角だ。採用や中期的な目標設定やメンバーへの期待値調整、などなど。こういうことをやってるのか、だからコード書く時間がなくなるのか、対コードよりも対人間の仕事の割合が増えて不確実性の性質か変わるのだなー、と当たり前の感想を思う。アイドルとプロデューサーくらい違うのではなかろうか(たぶん)。

 

僕はいいアイドルではない。高品質の歌を歌うこと、正しい歌い方をレビューすること、歌詞の想いを読み込むこと、歌詞を向上すること、新しい音楽のリズムを使いこなすこと、それぞれに熟達してるわけではない。アイドル経験も長くない。

 

それでも、ライブに向けて日程調整とか、曲数調整とか、歌いたい人をセンターに譲ったり、衣装提供会社と折衝したりは、少しだけできる。そのあたりを会社は見てくれていたのかもしれない。

 

アイドルとして抜群ではない自分がプロデュース業ができるのか、と自信が揺らぐ。そこで同じような境遇だが活躍している人種はいないかふと思った。スポーツの監督だ。名選手、名監督ならず、という言葉があるじゃないか。

 

アリゴサッキというACミランを率いた名将と知られる。プロとしてのサッカー選手のキャリアはない。アマチュアでプレーしていたそうだ(それでも小中高とサッカー部だった自分よりは遥かにうまいはずだ。無意味な比較終わり)。そして名言を残している。記者会見でキャリアの話に触れた質問があったのだろう。煽る質問だったのかもしれない。彼は次のように答えた。

 

騎手になるために、馬に生まれる必要はない。

 

かっこいい! 名選手名監督あらずよりも尖っている。今日のポストはこの言葉を紹介したかった。力のある言葉はあいまいな負の気持ちから、ネクストアクションへと思考の焦点を切り替えてくれる。

 

マネジメントについて学者していきたい。

 

文章の途中に無意味な比較が出てきた。このマインドは行きたい場所・状態への自ら壁を作っている気がするので別途考える。

 

比喩でアイドルとサッカーの言葉を使った。ひとつのことを説明するのに例えの軸を2つ使うのはラジオで話すのには適さない、とオードリーがラジオでしゃべっていた。放送作家藤井青銅さんの教えらしい。青銅イズムと呼ばれる。気持ちよく書くために無視した。

 

(了)

自分の視野の外に出たい気持ちが強い。いまの自分の認識では、大事なものが欠落している、という感覚が常にある。何か見落としていないか、と。読書することと経験することで、それを探したい気持ちが強い。

本を読むことで著者の経験談や認識の理論を知ることができる。新しい色眼鏡で世界を見ることができると、裸眼のときとは景色が違う。単純に色が違うだけではなく、これまで無関係だと思っていたことがつながり、展開していることがわかる。そういう気付きがあると気持ちよさを感じる。

経験も同じ効果がある。学習プロセスに文字通り身を投じることになるので、読書とはまた一味違う学習経験が得られる。例えば、〇〇という仕事があるけどやってみない?、いま〇〇という部署が困ってて人が一時的に足りない、だとか組織にいると声がかかる。厄介な仕事が多い。あまり人がやりたがらないからそのような状態になっている。そういうときに気軽に身を投じるようにできればと思う。気が乗らないし、うまくできるか自信がないからだ。それでも認識をアップデートできるならかまわないじゃないか、と。実際の意思決定はこんなにかっこよくない、51:49でやる方向に倒すこともある。そして決めたあとにクヨクヨする。やっぱり失敗だったかもしれない。キャパオーバーのストレスを抱えるかもしれない、と。決定後クヨクヨスタイルは僕の課題だ。気持ちよさのために文章を書いていたら課題が言語化できた。

視野の外へ、認識のアップデート。やりたくないなーと思いつつ、なぜかやっている。自分の知らない大事なことを知りたいからなんだろうな。知る喜び、みたいなものを欲しているのだろうなー。

(了)

電車のなかでスマホで文章を書いてる。電車の中で文章を書く時期が20代後半にあった。小説を書いているときだ。

 

プリントアウトした小説をクリップで止めて満員電車の中で作業していた。赤字を入れて推敲したり、次の場面の展開を書いたりしていた。立ちながら背中を丸め周りの人に多少なりの迷惑をかけながらやっていた。

 

当時は職場まで電車で片道90分かけていた。エンジニアになったいまはもう勘弁したい。とても疲れたから。ただ、そのときはそうでもして文章を書いていたかった。想像を言葉にしたかった。なぜそこまでしていたのか、はどこかで振り返りたい。文章を書くことで自分を保っていたと思う。

 

よくわかんないですけど小説書かなきゃならないんすよ、と会社の元編集者に伝えたら、そういう気質のやつが小説家になるんだろう、と言われたことを覚えている。小説家としての才能があるんじゃないかと早合点したのも覚えている。

 

あれから5年くらい経ったが小説は書いてない。きっと自我の落とし所を世界や社会と調整してたのだろうと思う。新人賞を応募するための小説を書き切ったときに、自分のなかでストンと何かが収まるところに収まった感覚があった。あれはどういう意味だったのか。気持ちを整理する文章をいま書いていて、考えたい問題があらたに出てきてしまったところで今日は終わり。

 

(了)

技術的に可能か、どれくらい工数がかかるか、という見積が難しい。見積の回答いかんによっては、チームや仕事の首が回らなくなり、気持ちよく働くことができない。見積なんてできない。簡単な機能でも複雑なソースコードになっている場合は少なくない。正確な見積が欲しい方にとっては、あいまいな見積だと社内外のステークホルダーとのコミュニケーションが不安定になってしまう。だから正確な見積を渡してあげたい。でも正確な見積は着手してみないとわからない。どうすればいいのか。

と、ここまで書いて、スパイクという言葉を思い出した。どれくらいの開発規模になりそうか、を調べる時間をわざと用意する。たしかそういう意味だったと思う。スパイクを使えばいいのかしら。「とりあえず調査します、半日で回答します」のように? 選択肢として頭に置いておこう。

なんだかんだあって、開発組織のコストについて考えている。人件費、運営費、製造費などなどが挙げられる。残業をしないように、も人件費削減の一環として有効なのかしら。時間の浪費を削減する観点から考えると障害対応が起きないように品質を高める、というのもコスト改善につながるかもしれない。組織単位で思考すると、これまでいかに個人単位で物事を考えていたかに気づくことができる。

(了)

変化球ばかり投げてきたのでストレートを投げるのが難しい。コミュニケーションのことだ。小学生の頃に推理小説を読むようになって、名探偵に憧れた。細部を見逃さず、当たり前を疑う。そうしているうちに穿ったものの見方をするようになった。斜に構えるようになった、というほうがわかりやすい。そして予備校生時代にガキ使のハガキコーナーにはまった。近所のTSUTAYAに通ってDVDをレンタルしてよく見ていた。常識的な疑問について、松本が斜め上な回答をする。浜田がつっこむ。松本はさらに主張を曲げずに展開する。その様が面白かった。さらに斜に構えるようになった。気持ちをストレートに表現することなく、屈折して表現する、あるいは表現しない選択をしていた。かわいくない。大学の頃に働いていた埼玉は大宮で居酒屋の店長には、お前はまず斜に構えてるようじゃだめだな、と指摘された。尊敬できる少ない大人だったので(ここにすでに弊害が見て取れる)心に残っている。どれくらい斜に構えていたかというと、家族で写真を取った時に、両親の笑顔を見て、「お、いいね、遺影にもってこい」と言っていた。あまりに不謹慎なので笑いが起きていた。「いい顔してるね」と言わない。言うことができなかったのだ。いい写真だと思った、だけどストレートに言えない。だから屈折した言い方になっている。

32歳くらいになってだんだんとストレートな表現ができるようになった。遅い。未熟者にもほどがある。が、とにかくだんだんとできるようになってきたと思う。なぜか。単純に恐怖からだった。素直な表現をして周囲に拒絶されたら逃げ場がなくなる。それは寂しくて恐い。回避するために逃げ場を残した表現をしていた。発言を周囲に受け入れられなかった場合は、「やっぱり違ったか」とか逃げ場に潜ることができる。そのような恐怖していること自体を自覚したときにストレートな表現ができるようになったと思う。ありがとう、と自然に言えるようになった。まだ恐怖心が邪魔をすることは大いにある。道半ばだ。「好き」と自然に言うことに恥ずかしさを覚える。何かがそれを阻んでいるのだろう。そのうちわかるといい。きっとわかるはず。というか同じ論理かも。

(了)

雑に扱われると嫌な気持ちになる。頼まれた仕事をしたけど、用なしになった。ねぎらいの言葉ひとつもらえないと嫌な気持ちになる。行動を起こしたことへの配慮がない。なんだか尊重されていない気がする。

こういうときに、ひとつ徳を積んだ、そのうちいいことあるだろう、と考えることができる。だいたいはそれで嫌な気持ちを回避できる。ただそうもいかないときもある。嫌な気持ちを抱えていると、他の関係のないことも嫌な面が目につくようになる。生活がもったいない。

そういうときには、ひとことだけ言うようにしたい。今度は〇〇してくれると嬉しいです、など前向きなひとことを。相手の行動変容には期待しない。自分の気持ちを整理するための儀式として行う。極めて自己中な行為に思える。なのでできるだけ前向きに自然に伝える。なるべくその場で本人に口頭で伝えるようにしたい。

理想は嫌な気持ちになっても、すぐに気持ちを切り替えることができることだ。まだその域に達していない。精進したい。他人の嫌だなと思うことは、自分も人にしている可能性が高い、とどこかで読んだ。ぼくも雑に人を扱って嫌な思いをさせたことはきっと無数にあるに違いない。人の振り見て我が振り直せ、というやつだ。行動を変えていきたい。

(了)

これを片付けたらこれをやらなくちゃ、それを片付けたらこれをやらなくちゃ、と考えているときにストレス値が高い。〇〇しなくちゃ、と口に出していることが多いらしく、彼女に疲れるからやめて、と言われた。核心を突かれた。暮らしをともにする良い面のひとつだ。

振り返ると〇〇しなくちゃ思考を推進力にして現在に至っている。他人や公共のものさしを目標値として採用し、そこに到達しなくちゃいけない、だからがんばる、のような。しなくちゃ思考で到達すると、周りは褒めてくれる。責任感があるね、と評してくれる。しかし、目標は次から次へと存在している。その目標をクリアしたら次はこの目標をクリアしなくちゃね、というように際限がない。それはつらいのかもしれないし、腕の試しがいがあるのかもしれない。

〇〇したい、と言ってよね、と彼女に続けて言われた。たしかに本を読みたいなーと考えていても、本を読まなくちゃ、と思ってるし言ってる。本を読んだらアウトプットしなくちゃ。ブログに清書してアウトプットしなくちゃ。読みやすくしなくちゃ。と思考が続く。病なのかもしれない。本当にしたいこと、やりたいことをまだ見つけていないのかしらん。仕組みを知りたい活用したいと昨日投稿した。目的が空白だから、したい、しなくちゃになっているのか。あるいは自我形成のある段階で思考ロジックが切り替わったのかも。

話が暗くなってきた。が、他人の尺度を目標とすることのメリットもある。自分の可能性を広げる。自分では思いつかない目標を課すことで、自分では予想しなかった能力が発見・展開されるからだ。ハンターハンターで強制的に念能力を発動させられた描写のように(いまいちな例えだ)。もちろん主人公のように才能はないので頭をぶつけながらだけど。ただし面倒だ。やりたくないことに必ず直面する。ストレスがかかる場面もある。

メリットを自覚しているので、他人の提案や目標ややり方にはとりあえず挑戦するようにしている。他人の靴を履く、という比喩が好きだ。体に合わないから痛みを伴うけれど馴染めば別の景色が見れるかもしれない。

〇〇しなくちゃ思考は消極的だ。目標を得る意思決定をしたのは自分だ、だから達成のために〇〇したい、と積極的な思考を展開したい。この文章でいかに消極的に思考していたかを振り返ることができた。積極的思考を展開したい。

思えば積極的思考のよさを体感したのは、高校の水泳授業のために潜水を市民プールで練習したことだったこと思い出した。それは別の機会に。

(了)