tawara's blog

雑記。個人の見解です。

変化球ばかり投げてきたのでストレートを投げるのが難しい。コミュニケーションのことだ。小学生の頃に推理小説を読むようになって、名探偵に憧れた。細部を見逃さず、当たり前を疑う。そうしているうちに穿ったものの見方をするようになった。斜に構えるようになった、というほうがわかりやすい。そして予備校生時代にガキ使のハガキコーナーにはまった。近所のTSUTAYAに通ってDVDをレンタルしてよく見ていた。常識的な疑問について、松本が斜め上な回答をする。浜田がつっこむ。松本はさらに主張を曲げずに展開する。その様が面白かった。さらに斜に構えるようになった。気持ちをストレートに表現することなく、屈折して表現する、あるいは表現しない選択をしていた。かわいくない。大学の頃に働いていた埼玉は大宮で居酒屋の店長には、お前はまず斜に構えてるようじゃだめだな、と指摘された。尊敬できる少ない大人だったので(ここにすでに弊害が見て取れる)心に残っている。どれくらい斜に構えていたかというと、家族で写真を取った時に、両親の笑顔を見て、「お、いいね、遺影にもってこい」と言っていた。あまりに不謹慎なので笑いが起きていた。「いい顔してるね」と言わない。言うことができなかったのだ。いい写真だと思った、だけどストレートに言えない。だから屈折した言い方になっている。

32歳くらいになってだんだんとストレートな表現ができるようになった。遅い。未熟者にもほどがある。が、とにかくだんだんとできるようになってきたと思う。なぜか。単純に恐怖からだった。素直な表現をして周囲に拒絶されたら逃げ場がなくなる。それは寂しくて恐い。回避するために逃げ場を残した表現をしていた。発言を周囲に受け入れられなかった場合は、「やっぱり違ったか」とか逃げ場に潜ることができる。そのような恐怖していること自体を自覚したときにストレートな表現ができるようになったと思う。ありがとう、と自然に言えるようになった。まだ恐怖心が邪魔をすることは大いにある。道半ばだ。「好き」と自然に言うことに恥ずかしさを覚える。何かがそれを阻んでいるのだろう。そのうちわかるといい。きっとわかるはず。というか同じ論理かも。

(了)