tawara's blog

雑記。個人の見解です。

気づくとベースに焦燥感を抱いているときがある。いまの判断で大丈夫なのだろうか。事態悪化を告げる重要な兆候を見逃してないか。判断するべきことを見つけられていないのではないか。疑問が頭をぐるぐると回ってしまい、この瞬間に向き合いたい課題から集中することができないことがある。

あるいは向き合いたくないから、頭をぐるぐるさせているのかもしれない。逡巡することで責務を果たしていると思い込むことができる。何かあったときに、考えてはいたのですが、などと簡単な言い訳ができるし。

とここまで書いてきて、ふと思った。仕事をしているとは、焦っていることだ、という価値観を持っている。安心してゆっくり仕事をすることは、サボっていることだと思いこんでいる。あるいは土壇場で焦っている方が、ゆっくり考えているより、火事場のクソ力でよい判断ができると思っている。緊急事態になれば感性が研ぎ澄まされて、能力が十全に発揮できる、とかも思い込んでいる。

これには原体験があることを思い出した。子供の頃にスキーを練習していた。まだ慣れてなかった。そのとき小さい坂から人混みに向かって突っ込んだことがある。緊急事態で思考は棚上げされていた。そのときに不思議と自然に体が動いて、誰にもぶつからず停止した。その成功体験から、思考・判断を低く見て、緊急事態のその場の判断を高く見る、という価値観を持った気がする。

練習は意味がない、本番の学力試験、本番のサッカーの試合、本番の障害活動でこそ初めて能力が発揮できる、と。無意識のこの価値観にはずいぶん苦しめられた。なんせ平時の練習を心から信じてないからだ。どこかコミットメントできていなかった。だけど本番になれば完璧だと思い込み、実際の結果に叩きのめされる。当たり前だ。本気で練習していないのだから。

あー、すっきりした。バイアスに気づくことができた。

だから練習に取り組むことが本番で成果を出す、という価値観を持つことを許す。というか、結構事前に準備するタイプだと思い込んでいた。練習や事前準備に価値を見出していないのに、事前準備に結構取り組んでいた。そのねじれみたいなものがあったかもしれない。価値のないものにリソースを注ぎ込む自分に嫌気がさしていたのかもしれない。それだとエネルギーが出ないな。

これで安心して事前準備に前向きに取り組めそうだ。予想外の展開だが、文章を書いてよかった。

(了)